LOGIN「それは、二人きりの時にご自分で確かめてください」
そう言ってウィンクすると、彼は楽しそうにリビングへ戻っていった。
……朔さんまで、教えてくれないんだ。
城島さんといい、朔さんといい、どうしてあの人の周りにいる人は、みんなして意地悪なのだろう。
一人残された廊下で、胸の奥がトクンと跳ねる。
城島さんが言いかけた「少しだけ──」の続きも、朔さんが言った「あんな顔」の意味も。
教える気がないくせに、こちらの心を大きく揺さぶっていく。
遠くから、柊さんの低く落ち着いた電話の声が聞こえてくる。
……二人きりの時に、確かめるなんて。
そんなこと、できるわけがないのに。
朔さんの言葉が、甘い熱となって身体に巡っていく。
◇
しばらくして、電話を終えた柊さんが廊下の向こうから戻ってきた。
「待たせた」
「いえ」
柊さんと目が合った
「それは、二人きりの時にご自分で確かめてください」そう言ってウィンクすると、彼は楽しそうにリビングへ戻っていった。……朔さんまで、教えてくれないんだ。城島さんといい、朔さんといい、どうしてあの人の周りにいる人は、みんなして意地悪なのだろう。一人残された廊下で、胸の奥がトクンと跳ねる。城島さんが言いかけた「少しだけ──」の続きも、朔さんが言った「あんな顔」の意味も。教える気がないくせに、こちらの心を大きく揺さぶっていく。遠くから、柊さんの低く落ち着いた電話の声が聞こえてくる。……二人きりの時に、確かめるなんて。そんなこと、できるわけがないのに。朔さんの言葉が、甘い熱となって身体に巡っていく。◇しばらくして、電話を終えた柊さんが廊下の向こうから戻ってきた。「待たせた」「いえ」柊さんと目が合った瞬間、彼はわずかに視線を泳がせ、気まずそうに小さく咳払いをした。電話越しに朔さんと何を話していたのか察しているような、絶妙な間だった。「……朔が、変なことを言わなかったか」「いいえ。何も」嘘をついて微笑むと、後ろから追ってきた朔さんが悪戯っぽく声を挟んできた。「兄貴、今度は柚葉さんの友達も呼んでよ。ずっと支えてくれてる人がいるんでしょ、気になるなあ」「朔」柊さんが低く咎めたけれど、朔さんはどこ吹く風だった。友達──真っ先に、葵の顔が浮かんだ。葵と朔さんが顔を合わせたら、一体どうなるんだろう。想像すると、少しだけ楽しみな気持ちが芽生えた。◇黒瀬家を出て、一人で駅までの道を歩いていた。夕方に近づいた空が、少しずつ橙色を帯び始めている。歩きながら、今日一日のことを振り返った。朔さんの明るさ、柊さんの珍しい狼狽、食卓の賑やかさ。どれも、これまでの
コンペを受けると決めてから、平坦な日々ではなかった。深夜まで資料と向き合う日が続いた。過去のコンペで掴んだ「相手を見る」という軸を、今度はどう別の形に落とし込むか。何度も企画を練り直し、時にはボツにした案が机の上に積み上がった。二週間が経った頃、ようやく自分でも納得のいく形にたどり着いた。『西園寺柚葉として出された企画が、コンペを通過しました』城島さんからその連絡を受けた時、しばらく息をするのも忘れるほど嬉しかった。身代わりでもなく、誰かの恋人としてでもない。西園寺柚葉という一人の人間として、自分の力だけで掴み取った結果だった。あの夜、柊さんから届いた『結果を見たい』という一文。それに、ようやく胸を張って応えられたのだ。報告をした時、柊さんは「そうですか」と短く言っただけだった。けれど、電話越しの低い声には、隠しきれない優しさが滲んでいた気がした。そして──『今週末、黒瀬の家に来てほしい』と、彼から正式に招かれた。◇当日。黒瀬家に到着した瞬間に、私は思った。招かれて来た。それだけのことなのに、誠一郎さんの庭に連れてきてもらった時とは違う緊張感があった。あの時は、流れの中でそうなった。今日は、柊さんが「来てほしい」と思って、呼んでくれた。黒瀬家の門をくぐると、玄関先で見知った顔が待っていた。「いやー、やっと来た」開口一番、そう言って手を振ったのは朔さんだった。パーティーで一度顔を合わせただけなのに、まるで昔からの友人のような気安さだ。「改めまして、弟の朔です。いつも兄がお世話になってます」「西園寺柚葉です。……本日はよろしくお願いします」「堅い堅い。普通に話してくださいよ」屈託のない笑顔。柊さんとは全く違う空気を纏った人だった。同じ血が流れているとは思えないほど、表情の作り方が自由だった。「兄貴が女性を家に連れてくるなんて生まれて初めてだから、俺めちゃくちゃ楽しみにしてたん
心臓が痛いほど跳ねていた。冷ややかに研ぎ澄まされた彼の視線を受け止めながら、私は必死で踏みとどまった。ここで目を逸らしたら、きっとまた守られるだけの存在に戻ってしまう。空調の音だけが響く沈黙の中、先に口を開いたのは柊さんだった。「それは非効率です」「知っています」「では、なぜ」一番聞かれたくない質問だった。でも、逃げるわけにはいかなかった。「柊さんの名前で、仕事を取ることはしたくないんです」声が、思ったより落ち着いていた。再び、沈黙が落ちた。会議室の空調の音だけが、やけに大きく聞こえる。柊さんは私から目を離さず、ただ静かに、まっすぐこちらを見ていた。その視線に、呆れや怒りの気配は少しもなかった。「……わかりました」「え?」思ってもいなかった返事に、思わず聞き返した。「コンペにします」それだけだった。それ以上、彼は何も付け加えなかった。折れたわけではないと思った。この人が効率よりも優先したもの──それが何なのか、その時の私にはまだ分からなかったけれど。ただ、断った直後だというのに、部屋の空気が少しも重くならなかったことだけは、確かだった。むしろ、これまでのどんな打ち合わせより、二人の間に流れる沈黙が穏やかだった気がする。自分の意思をまっすぐ伝えられたことへの安堵と、それを真正面から受け止めてくれたことへの驚き。そのどちらもが、胸の中でゆっくりと形を変えていくのを感じていた。◇打ち合わせが終わって会議室を出ると、廊下で城島さんが待っていた。「西園寺さん。本当に、よろしかったんですか」柔らかい声で、城島さんが尋ねた。「……あれで、正しかったと思います」自分に言い聞かせるように、そう答えた。「社長も、そう思っていると思いますよ」「どうして、わかるんですか」
七月の第二週、火曜日。城島さんから連絡があったのは、朝の慌ただしい時間帯だった。「黒瀬グループの関連企業のプロジェクト、担当は西園寺さんでどうか、と社長がお話を通しています」その言葉を聞いた瞬間、胸の奥に、小さな棘が刺さったような感覚があった。嬉しくなかったわけじゃない。実力を認められることは、もちろん嬉しい。でも──それが「柊さんの一存」で決まったのだとしたら、話は違ってくる。そういえば、以前にも似たようなことがあった。来期のメイン統括にと打診された夜、彼の言葉があまりに真っ直ぐで、温かくて、深く考えないまま「喜んで、お受けします」と即答してしまったことがある。今思えば、あの即答は、彼の言葉の心地よさに流されただけだったのかもしれない。逃げない、と決めたばかりだった。柊さんに、自分の過去を全部話した。それでも変わらないと言ってもらえた。なのに今度は、違う形で「守られる」ことに、心が抵抗していた。同じように、彼の厚意にただ頷くだけでは終わりたくない。自分の力で立ちたい、という気持ちが静かに、でも確かに、胸の中で疼いていた。◇その日の夕方、柊さんとの打ち合わせが設定されていた。会議室の窓から、夏の気配を帯び始めた空が見えた。梅雨明けが、もうすぐそこまで来ている。「……一つ、確認させてください」書類を挟んで向かい合った柊さんに、私は口を開いた。「何でしょう」「この案件の担当に私の名前を挙げたのは、柊さんですか?」一瞬の間があった。柊さんの表情は変わらなかったけれど、その沈黙の長さが、答えを先に教えてくれた気がした。「そうです」はっきりとした声だった。隠すつもりも、誤魔化すつもりもない声。「なぜですか」「前回のコンペを見て、あなたには実力があると判断したので」淀みのない答え。でも、それだけでは、私の中の疑問は消えなかった。「それは
【柊side】「それから……もう一点、ある」『何でしょう』「取締役会に例の文書を最初に持ち込んだ人間が、誰なのか。まだ、はっきりしていない。彼女は『近くから』漏れていると言っていた。表からの脅威より、内側の穴の方が、始末に負えない」電話の向こうで、城島がわずかに息を吸う気配がした。『……範囲を広げて、調べます』「頼む。城島」『はい』「これ以上、彼女を脅かすものは何もないようにしたい」電話の向こうで、城島が小さく息をついたのがわかった。『社長らしいご判断だと思います』その言葉に、俺は何も返さなかった。ただ、静かな部屋を見ていた。◇電話を切った後も、部屋の中は静かなままだった。守るのではなく、証明する──それが、俺にできることだ。彼女が自分の足で立とうとしているのなら、俺がすべきことは、彼女を庇うことではない。彼女の正しさを、誰の目にも明らかな形で示すことだ。そう思いながら、机の上に置いていたタブレットを引き寄せた。例の取締役会宛の文書──役員たちの間で回っていたそれの写しに、もう一度目を通しておこうと思った。文書自体の送り主は分かっている。一部の役員と親族の名前で、正式に届いたものだ。だが、その中身の材料になった情報を、誰が最初に彼らへ吹き込んだのか──そこだけが、まだ分かっていなかった。画面を開き、文面をなぞる。何度読んでも、内容自体は伝聞の域を出ない、曖昧なものだった。だが、ふと目に留まったのは、文書の隅に小さく入った、送付時のフォーマットだった。社外文書のテンプレート特有の、ヘッダーの組み方。見覚えがあった。ライトワークスの、社内資料でよく使われている書式と、よく似ている。俺は画面を見つめたまま、しばらく動けなかった。彼女の勤め先の、書式。彼女自身のはずがない。だとすれば──今もライトワークスと取引が
【柊side】柚葉が部屋を出て行ったあとも、ソファには彼女の温もりが残っていた。部屋の中は、しんとしていた。物音一つしない、いつもより重たい静けさだった。五年前のこと。証拠の取り方がグレーだったこと。無関係な同僚──橋本という名の女性を巻き込んでしまったこと。姉に脅されていたこと。彼女が話した言葉の一つ一つが、まだ消えずに胸の内に残っていた。彼女は震える声で、それでも最後まで話しきった。俺から、目を逸らさずに。その姿を見て、確信したことがあった。彼女は、間違えたのではない。正しくあろうとして、不器用にもがいた結果、傷ついたのだ。橋本という名前を、俺は今夜初めて聞いた。彼女を巻き込んだまま、五年間、放置されてきた人間がいる。それを知って、動かない理由はなかった。スマホを手に取り、城島に電話をかけた。◇『はい、社長』三コール目で、城島が出た。夜分にもかかわらず、声に乱れはなかった。「今から言うことを、正式に進めてほしい」『何なりと』「彼女から、五年前のことを聞いた。正式に調べる」一瞬、電話の向こうで沈黙があった。『……お仕置きのおつもりですか』城島の声には、わずかな緊張が滲んでいた。七年間、俺の傍にいる人間だからこそ、俺の言葉の裏を疑うことができる。「違う」俺は、はっきりと言った。「証明するだけだ。あの人が、最初から正しかったということを」彼女は、自分の過去を武器にされることを恐れていた。伝聞と憶測だけで、素性の不確かな人物と呼ばれることを。だったら、事実を明らかにすればいい。彼女がどれだけの覚悟で内部通報に踏み切ったのか。どれだけの不利益を、正義のために引き受けたのか。それを、誰にも否定できない形で示す。「当時の会社の横領の件、そして彼女が通報した経緯について、改めて調査してほしい。弁護士も動かしていい。それと──」俺は息を吸い込んだ。
それから、当たり障りのない会話が続いた。趣味のこと、好きな食べ物のこと。プロフィール帳に書くような、差し障りのない質問と回答。姉から叩き込まれた設定を頭の中で繰り返しながら、ボロが出ないようになんとか答え続けた。ところが──。「お仕事は、普段何をされているんですか?」ひどく自然に投げかけられたその質問に、張り詰めていた頭が一瞬でフリーズし、口が勝手に動いた。「広告の……プランニングを──」しまった。姉は、ファッションモデルのはずだ。「……っ、いえ。今はモデルの仕事を少しお休みしていて、その……裏方のお手伝いのようなことを」取り繕うように、慌てて言い直す。顔に熱が集まるのを感
ゆっくりと扉を開け、一歩足を踏み入れた瞬間、思わず立ち止まりそうになった。高い天井に広がる、クリスタルのシャンデリア。香ばしいコーヒーの香りと、白く気高く咲き誇る大輪の胡蝶蘭。磨き上げられた大理石の床に、自分が履いている安物のヒールの音がカツカツと不躾に響く気がして、それだけで萎縮しそうになる。場違いにもほどがある……。心の中で小さく呟き、緊張で強張りそうになる手を、そっとドレスの上の膝に置いた。ここで怯んだら、一瞬で「偽物」だと見破られてしまう。案内された席に着いた瞬間、背筋が自然と真っ直ぐに伸びた。膝を揃えて座る。手をテーブルに乗せない。視線を落としすぎないように前を向く。
「あなた、西園寺真帆さんじゃありませんよね?」その一言で、心臓が止まった。白いカップを持つ指先から、血の気が引いていく。震えそうになる手を悟られないよう、私はそっとカップをソーサーへ戻した。小さな陶器の音が、静まり返ったカフェにやけに大きく響く。どうして?どうしてバレたの?「……何のことでしょうか」かろうじて笑みを作る。けれど、目の前の彼は微笑みもしなかった。「無理に誤魔化さなくて結構です」向かいに座る男──黒瀬グループの社長である黒瀬柊は、こちらをまっすぐ見ていた。責めるでもなく、怒るでもなく。ただ静かに、"真実"だけを見
一段階低くなった姉の声が、耳の奥に刺さった。『あたしが今の彼との話をまとめるまで、黒瀬の目を逸らし続ける必要があるの。黒瀬家とうちの家、色々と込み入った事情があるのよ。あんたが勝手に終わりにして、黒瀬側から実家に何か連絡でもされたら、全部おじゃんになる。わかる?』「わかってる。でも──」『断るなら、五年前のこと、全部バラすから』返事も待たず、音が消えた。また、五年前のことで脅されてしまった。昔から、姉は私の弱いところを探すのが上手かった。私はしばらく、その場に立ち尽くしていた。







